第四號 東町太鼓台 朝日
明治中期には運行していたようであるが、部品も現存せず写真なども無い。先々代は昭和16年から17年にかけて製作され、皇紀弐千六百年祭を祝うために総力を挙げて新調した。三島神社へ近隣の太鼓台が集結した際は、新調前の太鼓台で参加している。戦中も中断せずに運行したが戦後は暁部隊の復員などがカキ夫に加わり喧嘩太鼓を誘発、また昭和22年に集会所が火災になり掛布団のみを運び出すに留まり、後は焼失した。秋祭りに間に合わせるべく地区民上げての新調作業を行い、西条市に住む近藤泰山に彫刻一式を以来。台場など唐木は地元の大工が、刺繍一式は山下八郎に依頼した。彫刻は戦後の混乱期で材料が手に入らないため責任者が直接、欅材を西条市の近藤泰山宅まで運び、完成品を順々に持ち帰った。この彫刻類は現在も保管・管理されており、見事なまでの細部にいたる彫り具合は復元不可能だと思われる。焼失の翌年、昭和24年は上分町上之町太鼓台を借用したがわずかな期間で新調された太鼓台は2008年まで運行された。2007年に西山縫師により新調されたが現代風にアレンジされており、完全復元ではない。掛布団は2008年に完成お披露目となる。昭和30年代頃までは喧嘩太鼓をよくしていたが、昭和40年代になると平和運行コンクールが実施されるようになり、太鼓台の運行台数も減ったことから喧嘩太鼓は行われなくなる。昭和30年頃は法被だけの衣装ではなく、女物の着物を羽織ったり帽子を被る、サングラスをしたり頬冠をして悪ふざけをしていた。長襦袢を着ていたものもいた。平和運行を始めた頃から、法被が統一衣装となり、現在にいたる。総代や責任者は腰辺りにリボンを付けて先頭を歩く。戦後は日章旗はつけず、平成初期頃まで今よりも旗類が少ない状態で運行、国歌国旗法が施行された頃から日章旗を常時付けている。これは、川之江・伊予三島地区全体で同じ傾向がある。
明治中期     以前より運行
昭和15年     皇紀弐千六百年祭記念運行
昭和16年     新調開始
昭和17年     新調・運行
昭和22年     集会所が火災にて焼失・掛布団のみ運び出し
昭和23年     太鼓台新調へむけ、作業
昭和24年     新調作業完了
昭和20〜30年  喧嘩太鼓台最盛期
昭和30年代    23日のみ提灯による夜太鼓が始まる
昭和40年代    平和運行推進のため平和運行コンクールに参加
昭和40年代    23日のみ電飾による夜太鼓へ変わる
昭和40年代    鉄車を使用していたがゴムタイヤへ変わる
昭和50年代    カキ夫が少なくなり、常時台車を使用。宮入りのみ除車
昭和50年代    御輿巡幸の後を追い、汐汲道から直接上町神事場へと巡行変更
昭和50年代    22日も夜太鼓を始める
昭和57年      運行せず
昭和58年      運行再開 全面が豆電球による電飾となる
昭和60年代    休止太鼓台が相次いで復活
平成初期      旗類を付けずに運行
平成4年       伊予三島駅前に三島祭実行委員会所属太鼓台が集合
平成5年       22日昼間・23日夜に伊予三島駅前にてカキ比べ
平成15年頃    日章旗を付けて運行
平成16年頃    旗印を復活 団色の白色にて
平成18年     七重・重受け・房・法被を新調
平成19年     布団締め・幕・欄干を新調
平成20年     掛布団新調   飾り一式:製作 西山縫師

c宇摩太鼓蔵