第貮號 川原町太鼓台 雲龍
明治以前より運行されていた。初代は掛布団のある三島型と思われる(当時の掛布団の下絵が現存しており、雲龍の図柄である。これが屋号の由来である。なお妻鳥町新浜の先代に似た図柄である)現在の太鼓台は明治30年代に、現在の兵庫県高砂市の高砂次郎助町により高砂神社にて奉納されていたものが、明治末期から大正初期にかけて播州から見世物興行に来ていた際に、長雨にあい路銀に困り止む無く、屋台を売却することにし地元の川原町が買い取ったと伝わっている。これが、四国で唯一といえる反り屋根布団型太鼓台が現在も運行されている顛末である。購入当時は重が二重であったようだが、現在の播州では3重である。これは、明治時代には播州も2重が主流であり、後に華やかさなどを競う際に、より大きくなるため一重を足したのではないか?重に海老や龍の金物を布団締めの代わりにつけるようになった地区もあるようだ。播州のある神社に奉納されている絵巻物には二重の屋台が描かれている。ということは、少なくとも形状の発展過程では二重も存在していたのではないか?そう考えると、川原町に伝わっている「屋台」は歴史的価値は計り知れないものであり、重要文化財といっても過言ではない。平成元年に修復した際、三重に改造したが二重に戻せるように、本来の組木を残している。現在は、地区民から本来の姿での運行を望む声が多く、二重での運行を行っている。このように、修復を重ねても本来の形状を保っている川原町太鼓台だが、昭和55年の宮入にて大破し運行不能となった。ただし、かすかな記憶では大破した後も、毎年10月23日の昼に宮入りしていた記憶がある(同じ反り屋根布団型の子供太鼓台を購入し、代わりに運行していたのかも)昭和61年に青年団の熱意で修復され復活、この頃から23日の夜に宮入りしていた記憶がある。除車して拝殿前まで進むとき、よく横倒しになり露天の屋台を破損させたり、灯篭や狛犬に接触していた。ちなみに、管理人は汐汲道沿いに祖父の家があり幼い頃から祭りの23日は必ず行ってました。川原町が他の太鼓台が11号線を行った後で、汐汲道に入って先に御輿と合流したり(宮入以外、終日台車を使用していた頃)その頃は、他の太鼓台は夜間は電飾で運行していた時期で、唯一川原町だけ投光器。長襦袢だったり法被だったりと、衣装もバラバラでしたが非常に威勢が良く幼心にもカッコ良く見えました。今より、あの頃の祭りの雰囲気が好きです。今は今で活気があり、観客も太鼓台も増えて賑やかになりましたが、20年くらい前の、のんびりというかほのぼのとした、町の祭りという雰囲気。23日の夜に太鼓台が集落の中に入ると、出るときには近所の人が後を付いて、元来た道まで名残惜しく見送る姿。もう祭りが終わるんだなと、小さな子でもわかる風景でした。時代は代わり、移っていきます。でも、祭りの本質と意味合いは変わらないでほしいと思います。さて、そんな懐かしい思い出の世界に引き戻してくれる川原町太鼓台は平成元年に修復し、平成9年には12月23日に行われた皇孫誕生記念行事で運行した後、解体し即日兵庫県まで運び重受け等を修復しました。欄間の彫刻を新調し、他の彫刻類も新調予定。川原町では、神事には昔ながらの長襦袢を羽織っているのが特徴