第壱號 西町太鼓台 故軮 |
明治30年代には現在の形になる。ということは明治以前から運行していたと思われる。先々代は今より小さな太鼓台と伝わっており、担ぐことを目的とした太鼓台だったと推測する。ちょうど琴平町や宇多津町のように、大型化せずにトンボも小さく、今より刺繍も小さかったのでは?特徴的な二重欄干は乗り子の子供で座れる広さしかなく、大人には窮屈である。もしかしたら、買ってきた当時の作りを、生かしながら外側にも欄干を足して大型化を計ったのではないか?第壱番ということは、三島町で初めて太鼓台を奉納したからと思われがちだが、それ以前にも奉納していた地区があり、そこが奉納をやめたので一番になった可能性もある。どちらにしても、江戸末期には運行していたのは確かなようだ。三島町で最古の太鼓台写真に西町太鼓台が写っており、刺繍類は現在と同じものであり、100年近く図柄を変えず伝統を守っている。戦時中も運行したが、戦後は老朽化やカキ夫不足、喧嘩太鼓の続出などで昭和45年を最後に運行中止、太鼓台もお蔵入りとなる。その間も、保管はしていた。その後、昭和57年に修復を目的とした西町愛好会を結成し、昭和62年より修復作業を開始。同年には西町青年団も復活結成し、運行組織の陣容を整え、63年に18年ぶりに運行再開。青年団や有志に刺繍類の修復を本格的にはじめる。平成2年、夜間運行を当時の伊予三島市の主流だった電飾にするため、有志が自作し電飾にて夜間運行を始める。平成5年に伊予三島駅前に集結した際には中田井・中之庄・具定以外は、他の太鼓台は明治から昭和初期の製作であり、祭り終了後、青年団により新調の機運が高まり、議論の結果、地区民による修復を行うこととなる。平成6年、秋祭り前に布団締め新調完成し、翌年に掛け布団・幕を新調し全面新調完了となる。同年、西町太鼓台保存会を結成し、継続的な運行と保存を目的とする組織ができた。平成17年に、電飾をやめ、投光器での夜間照明をしていたが、平成18年に青年団による新しい電飾が完成し、秋祭りにて披露目となり、三島地区では貴重な電飾での夜太鼓である。 |
明治以前 運行? 明治30年代 新調。現在と同じ形状になる 大正6年 幕を新調し、現在と同じ図柄に 昭和45年 破損がひどくなり運行を中止 有志による修復作業開始 平成5年12月 新調提案。有志による、復元新調となる 平成6年 布団締めの復元新調完了 完全修復を目的とした西町太鼓台修復委員会結成 |
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