平木太鼓台詳細
平木には2台の太鼓台が存在し、一台は白トンボに5色の七重であり、飾りは天王寺(大坂)で製作したという。天王寺には山車製作の拠点があったそうで、昭和初期にあった太鼓台は、元はどれも上方から来たという話が伝わっている。この白トンボの太鼓台は、昭和初期には出さなくなり、原因は、よく喧嘩太鼓をしていたのと担ぎ手不足になったからという。あと、戦争で祭どころではなく、修理もままならなく出さなかったそうで、戦後すぐに現在の平木集会所の所有者が移転・売却する折、以前地区所有だった土地を購入し、半分を個人に売却。半分の土地に集会所建設となり、建設費捻出のため所有していた太鼓台を売却した。売却先は、大野原町大野原であり現存は不明。また、売却した際に太鼓だけは個人の面倒で購入したので、その方が維持管理することになり平木神社(当時は集会所も兼ねていた。建物はシロアリ被害で柱が折れて倒壊。現在は祠のみのなっている)に奉納し、置いていた。この太鼓は村松町大僧に住んでいた職人により製作され、この職人による太鼓は宇摩一円にあったという。この大僧で作られた太鼓は、戦後数年して地区の若者の寄り合いの際に小刀で割かれたという。そのとき、胴の木も割れてしまい破棄した。胴の内側に凹凸が掘られ妻鳥一とも言われるほどの音色だったという。売却された太鼓台のほかに、高さ2メートルほどの子供太鼓台もあった。これは、個人の所有で近所の者で担いで運行していたという。完全な三島型で赤トンボに五色の七重であった。この太鼓台も、昭和30年代には老朽化で運行しなくなり所有者の方が土地を売却する際に、骨董品などと共に廃棄され現存しない。戦争に翻弄された不遇の太鼓台であった。現在の太鼓台は、20年以上前に婦人会や愛護班が中心となり製作。唐木などは地元の木工所と元大工の方が製作した。
平木太鼓台 復活
2000年に入り、川之江市内の大人太鼓台の新営が相次ぎ、隣の新濱地区でも太鼓台を買い戻し復活。平木地区でも大人太鼓台の新営を望む声が上がるが、少子化と今後の人口増加を見込めないことなどから現在の太鼓台を修理しながら運行することとした。しかし、熱意ある若衆有志が中心となり太鼓台購入を模索し、三島町で新調となった太鼓台の飾りを購入することとなり、自治会に大人太鼓台所有を提案。管理・運営を平木地区民のみで行うこととし承認され、2008年の三皇神社秋季大祭より、妻鳥町五番目の大人太鼓台として運行する。飾り一式は三島町東町のもので山下八郎縫師の力作、掛布団は昭和16年の皇紀弐千六百年祭を記念して製作された由緒あるもの。唐木はブライダル石川に新規発注している。提灯も製作している。屋号は桜。これは三皇神社の社紋が八重桜であることから
2008年10月5日 平木太鼓台お披露目日 
念願であった大人太鼓台が再建され、10月5日にお披露目された。あいにくの雨であったが、本来秋祭りとは五穀豊穣に感謝祈るものであり雨もまた祈りに値するものである。太鼓台御披露目の日の雨もまた、神へ願いが通じたということではないだろうか。ときおり強く降りしきる雨の中、午後1時より三皇神社神主である熊本氏と太鼓台運営委員会・自治会関係者による神事が行われた。神事後、雨脚が強くなりしばしの休憩のあと雨が弱まった頃合を見て集会所前で差し上げ、地区内運行へと出発した。太鼓台が運行する先々では御花や接待を頂き、地区の方々総出でお披露目運行を祝った。運行ルートは集会所→ファミリーマート前→集会所→カラオケBOX→井地泉田方面→平木集会所である。なお、房類はお披露目のみの使用で秋季大祭には白房で運行する。sy
飾り一式は三島町東町から購入 重受けや欄間の彫りも見事
神事終了後の休憩
幕は今後、補修するそうです
八房のトンボ取り付け部分は三皇神社社紋「八重桜」
平木太鼓台の団章
おそらく戦前から受け継がれた青年団旗

c宇摩太鼓蔵