第参號 中下太鼓台
三皇神社の宮本である中下太鼓台。奉納番号は三號であるが、現在奉納している太鼓台の順番と思われるので本来は違うと思われる。明治時代に作られた太鼓台は何代目になるかは不明であるが、おそらく明治以前からの運行と思われるので現在の太鼓台が三台目と考える。明治時代に作られた太鼓台は図柄は同じと思われ布団締めは今より少し小さく、掛布団も小ぶりであった。なお、昭和20年代に撮影された写真が、先代中下太鼓台が写る最後の写真である。この後、売却したと思われる。昭和61年まで大人太鼓台は奉納されず子供太鼓台を運行。赤トンボであったので伊予三島から借りていたと思われる。昭和60年に太鼓を購入し、大人太鼓台も中古購入。色々探していたが、三豊郡から購入ということ以外判明しなかったが、先代との写真比較などから買い戻したのではないかという仮説を立てることとする。そうすると、昭和30年前後に川之江から購入した地区を絞ることが出来る。売却先では赤トンボであっただろうから、これからも調べることとする。先代太鼓台は昭和61年の運行時から綱を引きながらの運行で、この頃は子供も多く15日の綱係りは小さい子は後を付いて行くほど子供でいっぱいであった。綱の先頭から低学年、最後は小学校四年生で小学校5.6年は後棒を任されていた。法被も新品で、子供は帯が赤、大人が黒であった。夜間は投光器をつけて運行、平成4年頃から布団締めや房を部分新調していく。この頃から、完全に大人太鼓台へと変わっていった。夜間運行は電飾に変わり、有志が手作りで豆電球に絵具を塗り配線も絶縁テープで巻いて繋ぎ合わせていた。消費電力が大きく、2時間ほどで発動機に燃料補給し、休憩の度に照明が切れていた。また、雨が降ってくると掛布団のみに灯りを点して帰ることもしばしば。新調前年には、14日の集会所への帰りに雨が降ってきても幕まではシートをかぶせ、掛布団は露出したままで帰りました。15日に聞いた話だと、掛布団は金田方面に売却するとオッチャン達は話してましたが、現在も確認できず。どうなったのでしょうか?布団締めと幕は中下地区で希望者に譲渡。現在も、個人宅で額縁に入れられ飾られているそうです。金縄などは焼却処分しました。布団締め・幕はボロボロで刺繍は縮こまったのか黒帯に糸状で解れた状態の龍の刺繍。幕は端が擦り切れて物語りは判別不可能でした。平成7年10月に新調お披露目、現在の姿となる。

c宇摩太鼓蔵