妻鳥村 第壹號 綿市太鼓台 鳳凰    
太鼓台製作:梶内だんじり 
鳳凰の屋号は2006年より使用。一式を淡路市梶内だんじり店にて新調。掛布団以外は先代から図柄踏襲と思われる。先代は阿吽龍の細身な布団締、掛布団は無し
三皇神社新築記念運行  掛布団 双龍相対図
提灯での夜間運行 鳳凰の青年団Tシャツ

綿市太鼓台は昭和初期までに喧嘩太鼓をしていたそうで、カキ棒を他より1メートルほど長くつけて、掛布団がなかったのも当時の名残だそうです(地区の経済的要因による場合もあり)一応、喧嘩に備えて荒縄が七重に積まれてており、1998年頃の統一運行の際、少し揉めそうだったので縄が七重より落とされたところを目撃しています。現在は、平和運行を行っております。先代太鼓台の時代には、カキ棒が長かった為に平木の三叉路を曲がることが出来なかったそうである。現在のは2代目?と思われるが、もしかしたら江戸時代から奉納されていたのかもしれない。ということは3代目の可能性もある。推測だが、江戸時代には今より大きな地区単位で奉納していた可能性もあり、たとえば新濱・浜田は江戸初期には現在よりも範囲が狭いか無かった可能性がある。中下は中上と共に中村という地区であったし、上下に分けたのは近世になってからである。中村は庄屋があり、村の中心地であった。このことから、もしかしたら中村にも太鼓台があり古くから開けていた土居にもあった可能性があり、明治頃までは土居も太鼓台を所有していた。綿市太鼓台は、太鼓台が順々に奉納されなくなり、最後まで奉納していたため一番奉納になったのではないかと考えている。もしくは、近世で一番に太鼓台を奉納再開したためかもしれない。残念ながら史料等は無く神社も火災で燃えており、古い書物などは残っていない。古くから隣の定連寺と繋がりがあり、明治時代までは何らかの史料があったと思われるが明治時代の神仏分離と廃仏毀釈でそれらしき記述のある書物は破棄されたのではないか。都市化が進む現在、よほどの旧家を調べるか蔵でも徹底的に探せば何か出てくる可能性はあるが、興味が無ければ只の古い本であり、破棄された可能性もある。ということで、あくまでも主観的な推測であるが、綿市太鼓台の第壱號には、衰退期以前に他の太鼓台が第壱號だった可能性が否定できないと考える。ちなみに先代は細身の布団締めで掛布団は無かった。現在のは昭和末期に新調し平成に入ってから掛布団を追加して完全新調としてお披露目した。大正生まれの方の話だと、初めから掛布団はなかったようである。幕は数年前まで新調したのは主に最終日だけで、他は先代のを使用していた。これも梶内縫師作と思われる。

 
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