第伍號 井地町 橘

明治以前より運行。昔は地下水や金生川などの水が豊富で田畑だった。そこに製紙会社が工場を建てるようになり、現在は製紙産業の重要拠点になっている。1970年代まで太鼓台を所有していた。写真も残っており虎と昇龍の一対布団締めという観音寺型に近い刺繍だった。話によると、西之濱との喧嘩太鼓台により破損したという。その後、唐木や彫り物を古町に譲り子供太鼓台を作る。屋号は元金生川の西側にある橘岡から

第八號 山下町 朝日
大正以前より運行。白とんぼの太鼓台を所有していたが、花園山買取(現在は削られ山下公園になっている)の際に、売却した。以後は、借りてきて運行していたが、いつの頃か運行しなくなる。子供太鼓台として運行再開したが、現在は少子化のため運行していない。1985年に新調した。
屋号は花園山から望む朝日と地区の発展を願ったのではないか

第拾壱號 二名町

昭和中期より運行?余木村と長須村が合併した際の町名であり、現在は存在しない名称であるが公共施設は二名○○となっている。余木にも太鼓台があり、余木神社まで奉納していたという、話は聞いたことがあるが文書で残ってなく、口伝でありはっきりしない。長須には中所に獅子舞があるが、長須での奉納ではないので、太鼓台は余木・長須の連合太鼓台となっている。以前は刺繍も平面だったが、近年立体刺繍で新調した。川之江町東端の余木神社付近まで運行するはず・・・・


第拾参號 大門 欄

昭和後期より子供太鼓台を伊予三島より借りて、運行していた。川之江町最大自治会であり大人太鼓台を所有してなかったが地区青年有志により太鼓台運営の機運が高まり.川原町太鼓台新調の折りに先代太鼓台を譲り受け.1990年に大人太鼓台も川之江八幡神社へ奉納した。その後.部分新調し2003年に完全新調となった。屋号は地区公募により決定。欄は(あららぎ)と読む

第拾四號  新町子供太鼓台
少子化のため、運行されておらず

第拾伍號 駅通子供太鼓台
少子化のため、運行されておらず。

第拾八號 西新町子供太鼓台 
1968年に運動公園整備と共に新しく作られた団地である。城山の西側にあり公募により「西新町」とつけられた。後に、子供太鼓台を運行していた(新居浜型)現在は、少子化のため運行しておらず、太鼓台はどうしているのであろうか? 

第拾九號 港通り子供太鼓台
少子化により、運行しておらず

第弐拾壱號 宮ノ谷子供太鼓台

新興住宅地である宮の谷が新しく作った子供太鼓台。布団締めは先代塩谷→先代旭町太鼓台のもので、以前は先代中須太鼓台のものをつけていた。掛布団は山下子供太鼓台より借りている。

昭和後期   太鼓台を新規に制作

平成?年   布団締めを中須より購入

平成18年   掛け布団を山下町子供太鼓台よりレンタル

平成19年   布団締め・幕を旭町よりレンタル?唐木・台車を新調

平成20年   飾りを新調予定    

第弐拾弐號 天生津子供太鼓台 

天生津は大門地区の中にある住宅地である。天生津山を切り開いた住宅地であり、太鼓台は新規に運行している。10年ほど前まで、夜太鼓は電飾だった。2006年、布団締め新調

第弐拾参號 長持子供太鼓台

柴生町より、子供太鼓台が出来た年のみ参加。現在は太鼓台は無く、また過疎化で子供も少ない。ただ、道に提灯や灯篭を付けてはいる。

番外 栄橋通り子供太鼓台

2005年?より運行。金生町と川之江町にまたがる新しい地区である。栄橋が開通し、交通量が多くなり発展した町である。元は山であった。人口と子供の増加により、太鼓台運行をすることになり豊浜町より借りて初運行。2006年からは、川之江町古町子供太鼓台を借りての運行となっている。

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