太鼓台の伝播

金毘羅参りからの伝播
江戸時代の金毘羅参りは、全国から参拝客があふれるほど押し寄せ、寺社門前町であった金毘羅村は一大観光地へと変わる。江戸中期には伊勢参りと並ぶ庶民の憧れとなり、参拝できない人は犬を代参させた。現在も、おみくじに犬の小物?が入っているのは、そのような理由である。この金毘羅参りは全国から多くの人々が訪れたため、文化交流もあったと思われる。金毘羅歌舞伎として、歌舞伎が行われていたのは上方からの伝播であり、衣装もまた上方のものであり、後に真似て創るようになる。これが、太鼓台刺繍の原点となったようだ。現在も、多くのファンがいる「山下茂太郎」作の刺繍類。この山下茂太郎は16歳の時に金毘羅大芝居の衣装の美しさに感銘を受け、この縫い物を生業とすることを決心する。京都で38歳まで修業した後、池田町に帰郷した後は、伊予・讃岐の太鼓台刺繍を一手に引き受けるほどになった。山下氏が金毘羅大芝居を見たからこそ、刺繍技術が発展することになったといっても良い。そして金毘羅参りを通じて、太鼓台が華美になったと同時に、今まで太鼓台がなかった地域にも「太鼓台」が見聞されることになったのではないか?形状が琴平地区と似ている太鼓台もあり、もしかしたら琴平から伝わっていったのかもしれない
上方交易での伝播
現在のような、装飾を施した「太鼓台」が広がることになったのは、上方商人の存在なしには無理だったと思います。日本全国、特に西日本各地からの食料・物品が大坂に集まり売買されていた安土桃山時代〜江戸時代に、商人たちがこぞって神社・仏閣に寄進し家勢を競っていた頃、元禄年間(赤穂浪士討ち入りのあった、第五代将軍徳川綱吉の時代)に上方では町人文化が開花し、娯楽や装束が派手になり祭りも華美な「出し物」が選ばれるようになり、簡素なつくりだった「山車」には、派手な布を巻いたり彫刻を施すようになり、山車が爆発的に増えたと考えられる。増えた山車の中には、維持管理などで手放す場合(飢饉や疫病などで所有・奉納が困難になる場合)や新調の際に、売却した山車もあるでしょう。その売却した山車は上方に運搬に来た各地の商人・人夫の目に留まり購入した者もおり、。それが、徐々に瀬戸内海一帯で購入した「山車」を祭礼の奉納に用いることになり「太鼓」を積む「台」総じて「太鼓台」となり、土地土地で独自の形状に発展していったのではないでしょうか?香川県観音寺市伊吹島に1808年に大坂で新調したという書物が残っており、上方からやってきたという数少ない証拠といって良いのではないでしょうか?刺繍や彫刻は地元の名工が手がけるようになり、独自の太鼓台文化へとつながることで、「山車」は細分化していくことになったのでは。彫刻などの彫り師も地元で育ち名工となり、刺繍もまた新しい名工を生むことになり、現在の地域文化の発展の礎を築くことにもなったのではないでしょうか?
近距離での伝播
今から100年ほど前、明治時代には車も無く鉄道もない頃、人と物の流れは人力か馬であり、そのような状態では移動距離が30キロ圏内での物品売買が主流。太鼓台も売却され新たな土地で奉納されたのでは。特に徳島県内には吉野川を上流に行くほど「ちょうさ」が奉納されていた。この名称からも讃岐との物・人の流れが盛んだったと考えられ山城町には赤トンボの「ちょうさ」が大正時代に四台あり、井川町や脇町、池田町にも「太鼓台」「ヨイヤショ」「ちょうさ」があった。脇町は新居浜から購入したという「ヨイヤショ」は黒トンボであるし、山城町大月は赤とんぼ、池田町馬路は黒トンボである。池田町中西のは形状が中讃ににていて掛け声も琴平付近に近い。なお映画「村の写真館」で登場しているので、興味がある方はご覧ください。

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